2018.1.29

ブラナゴヤ!木村有作さんと名古屋のモノづくりのルーツをたどる~その2

名古屋市教育委員会文化財保護室学芸員 木村有作さん

TEXT:TOSHIYUKI OTAKE / PHOTO:TOMOYA MIURA

ブラナゴヤ第4弾! 前回に続いて名古屋市教育委員会文化財保護室学芸員・木村有作さんの案内で、名古屋のモノづくりのルーツをひもといていきます。
※写真の堀の中は一般開放をしていません。

名古屋城の外堀を走った“お堀の電車”が運んだモノとは?

名古屋城築城と同時期に開削された堀川では木曽からの材木が運ばれて、地域の木工産業が盛んに。そして、水運の輸送力をさらにアップさせるために昭和初期に作られたのが中川運河だった、というのが前回のおさらい。では、近代になって水路などを使って運ばれ、名古屋のさらなる発展を推進したのは何だったのでしょう。

その謎解きのために木村さんが案内してくれたのは意外な場所でした。名古屋城の北東にあたる柳原商店街の入口あたりです。ちょっと昭和の趣を残す特に変哲もない住宅地に見えますが・・・。

「道路がやけにカーブしているのに気づきませんか?」
こう木村さんに問われてみると確かに。道路と中央の植樹帯が大きく弧を描いています。これは一体・・・?

「廃線跡なんです。明治44年~昭和51年まで、ここを鉄道が走っていたんです」
この場所で運行していたのは通称“瀬戸電”( 瀬戸電気鉄道。昭和19年から名鉄瀬戸線)。この瀬戸電、さらにアッと驚く場所を走っていたのだとか。続いて廃線跡として木村さんが連れて行ってくれたのは何と・・・。

  • 線路跡のすぐ北側にある柳原商店街。昔ながらの商店の連なりに古き良き時代の趣が残る

「名古屋城の外堀です。瀬戸電はお堀の中を走り、“お堀の電車”とも呼ばれて親しまれていました」
三の丸庭園の下のカーブはほとんど直角に近いほど。曲がる時は一両目の窓から続く二両目の車体が見えたほどだったといいます。“お堀の電車”は大津橋、本町橋、御園橋をくぐり、景雲橋の手前に終点の堀川駅がありました。つまり瀬戸電は、瀬戸と堀川を結んでいたのです。では、ここで何が運ばれていたのでしょう?

かつて名古屋城の外堀を電車が直角に曲がっていた「サンチャインカーブ」跡

「瀬戸から、といえばピンと来るんじゃないでしょうか。そう。焼き物です。瀬戸電は瀬戸で作られた陶器を堀川まで運び、水運に乗せるための貨物列車だったんです」
堀の中に線路を通したのには地形的な理由があるといいます。
「瀬戸と堀川の間には標高10m以上の尾張台地があります。電車は勾配に弱いため、それを避けるために堀の中を通ることにしたんです。しかも、外堀の東側と南側は水がない空堀だったのでうってつけだった。名古屋人らしい合理的な発想で作られた陸送ルートだったわけです」

さらに城下町の町割が陶磁器産業の発展に重要な役割を果たした、という木村さん。
「名古屋城の東側は広大な武家屋敷が広がっていました。明治になるとそこが空き家となり、ここに陶磁器工場が作られました。瀬戸で作られた焼き物がここでいったん下ろされ、絵付けをされて堀川を経由して欧米に輸出されたんです。明治から昭和にかけて、陶磁器は名古屋の主要産業で、輸出陶磁器の7~8割がここで絵付けされていました。名古屋港では、明治40年の開港から昭和40年代まで陶磁器が輸出額トップを独走していたんですよ。中でも中心的存在だったのが森村組。ノリタケの食器の名前は広く知られていますよね。明治37年にこの地区に工場を作り、日本で初めて高級洋食器を作り、海外でも絶大な人気を得たんです」

景雲橋の北にある景雲橋小園という公園がかつて堀川駅があった場所
  • 「駅と堀川はスロープで結ばれて、ここで海外向けの陶磁器が船に積みだされたんです」

木材や木工産業の次に名古屋のモノづくりの中心となった陶磁器。その生産や流通にも家康の町づくりが大きくかかわっていたのです。

陶業黄金時代を支えた拠点施設

瀬戸電~堀川を経由して海外へ輸出されていた愛知の陶磁器。世界中で高く評価されていた工芸品の数々を実際に見たい、と思ったらここへ。当時の作品が数多く展示され、繊細かつ華やかな絵付けの超絶技巧を間近で見ることができる。年代物の陶磁器の販売もあるので、コレクションの第一歩が始まる可能性も(!?)

東山動植物園

動植物園の中に遺跡が? 古代までさかのぼるモノづくりの原点

この地域のモノづくりの原点を探るために、さらに大きく時代をさかのぼろうという木村さん。場所も大きく移動し、東山動植物園までやってきました。コアラやイケメンゴリラで人気の動植物園にモノづくりのルーツが? かなり意外な気もします。しかも、木村さんが向かったのはライオン舎の向かい側。ごく小さな丘状の地面に目をやると何やらちっぽけな破片を拾い上げました。

「平安時代末期から鎌倉時代の初め、11~12世紀頃の陶器のかけらです」
えぇ~ッ! 700~800年も前の陶器? それはすなわち遺跡ということ・・・?
「東山動植物園の園内全体が、瓶入谷(かめいりだに)という古代の窯の跡なんです」

  • ライオン舎の向かいの斜面に、大昔は焼き物の窯と焼き台があった(!) あちこちに割れた陶器の破片が
    (※注/破片は見つけても持ち出さないでください)

何と! 遠足や行楽の場として親しまれているこの場所が、貴重な史跡だったとは! さらに植物園方面まで進んでいくと、より鮮明に歴史の痕跡を確認できます。「万葉の散歩道」の一画にある「東山古窯跡群」です。窖窯(あながま ※「窖」はトンネルの意)とよばれる、粘土を盛った半地下のトンネル式の窯で、やはり年代は11~12世紀頃。名古屋市内で窯の形状が現存して見られるのはここだけだそうです。

東山動植物園内の文字通りの“穴場”。東山古窯跡群は植物園の「万葉の散歩道」の一角

「焼き物の産地になるには4つの条件があります。窯をつくるのに適した斜面。燃料となる森。作陶に不可欠な水。そしてもちろん粘土。ここ東部丘陵地帯はそれをすべて満たしていたんです。焼き物は朝鮮半島から伝わり5世紀頃に西日本で定着しました。以後全国各地に広まりますが、その当時からずっと産地であり続けているのは名古屋を中心としたこの地帯だけなんです」

  • 半地下式のトンネルで、粘土の屋根をかぶせて陶器を焼成していたと考えられる

400年前の江戸時代・・・どころでなく、名古屋のモノづくりにはおよそ1500年も前からの歴史の積み重ねがあったのです。その伝統を家康の町づくりが発展させ、時代に合わせて進化を遂げながら、現在の繁栄へとつながっているわけです。人工の川からお堀の鉄道、そして動植物園に遺る古窯の跡まで、広範囲にわたった今回のブラナゴヤ。まとめて巡るのはちょっと大変ですが、ひとつずつじっくり歩いてみてはいかがでしょうか。

木村さんの宝物『ブラタモリ』アルバム

2017年に3回にわたって放送された『ブラタモリ』名古屋編。木村さんはその各回に出演してタモリさんを案内した。ロケの途中ではところどころで、タモリさんや近江友里恵アナウンサーらとのオフショット撮影があり、それを後日紙焼き写真にしてプレゼントしてくれるというNHKの粋な計らいが。出演者だけが手にすることができるお宝だ。

PROFILE

案内人Yusaku Kimura

名古屋市教育委員会文化財保護室学芸員。同志社大学大学院文学研究科修了。見晴台考古資料館、名古屋市博物館、名古屋城などに学芸員として勤務。お薦めのスポットは尾張の城。「名古屋城の天守閣は今のうちに登っておくべき。他にも末盛城、大高城など堀などの残りのいいお城が市内にあります。小牧、犬山、岐阜城と合わせると充実したお城巡りになりますよ」

ライターToshiyuki Otake

名古屋在住のフリーライター。雑誌、新聞、Webなどに名古屋情報を発信する。著書に『なごやじまん』(ぴあ)、『名古屋の商店街』(PHP研究所)、『名古屋めし』(リベラル社)などがある。コンクリート造形師、故・浅野祥雲の研究をライフワークとし、その第一人者として『タモリ倶楽部』にも出演経験がある。

カメラマンTomoya Miura

1982生まれ。現在名古屋を中心にウロウロしながら撮影中。 その他、雑誌広告も。
栄の観覧車に一度は乗ってみようと思ってます。