2018.1.16

ブラナゴヤ!木村有作さんと名古屋のモノづくりのルーツをたどる~その1

名古屋市教育委員会文化財保護室学芸員 木村有作さん

TEXT:TOSHIYUKI OTAKE / PHOTO:TOMOYA MIURA

ブラナゴヤシリーズ第4弾! 今回は名古屋のモノづくりのルーツをたどります。案内役はシリーズ2回目で城下町だった本町筋界隈を案内してくれた名古屋市教育委員会文化財保護室の学芸員、木村有作さんです。
木村さんはNKK『ブラタモリ』でもガイドを担当。ここではタモリさんと共演経験もある名古屋ライター・大竹敏之がタモリさんの代役(?)を務めます。

家康の町づくりから発展した名古屋のモノづくり

名古屋を中心とする愛知県は“モノづくりの街”と称されます。製造業が盛んなことはデータからも明らか。県の製造品出荷額は37兆円で、2位・神奈川県の17兆円を大きく引き離してダントツのトップ。全国の実に13%を占めています。しかも35年連続1位という不動かつ絶対的なモノづくり大国なのです。

「戦国時代までは現在の名古屋の場所には大きな町はなく、徳川家康が大名に命じて名古屋城と城下町を作りました。その時、家康が計画した街づくりが、名古屋を日本有数のモノづくりの街へと発展させたんです」と木村さん。産業都市・名古屋の現在の隆盛は、400年前の家康の都市計画から始まったというのです。

そこで大きな役割を果たしたのが堀川です。堀川は熱田の海と名古屋城下を結ぶ水運のために江戸時代初期に開削されました。名古屋の人が普段当たり前のように見ている川が、今から400年も前に人の手によって作られた、というのはあらためて考えるととてつもない大事業です。

クルーズ名古屋

水鳥舞う中に大動脈だった名残りを感じる中川運河

さて、今回はあえて時計の針を進め、昭和初期に作られた中川運河からスタートします。
「堀川は江戸初期に作られた近世の運河。中川運河はそれを近代化させた運河といえます」と木村さん。
この名古屋のモノづくりの大動脈を水上から体験できるのがクルーズ名古屋。先ごろ町びらきしたささしまライブから出航します。

中川運河は旧国鉄笹島倉庫~名古屋港間8.2kmを結ぶ、これまた人口の川。天然の河川だった中川を大々的に拡張するため大正9年に着工し、昭和7年に完成しました。「名古屋の経済発展にともない、堀川と新堀川だけでは輸送をまかないきれなくなり、新たに作られることになったんです」(木村さん)

  • 中川運河の護岸や橋脚などコンクリートの基礎は昭和7年に完成した当時のまま残っている部分が多い
  • 材木の倉庫などが河岸のあちこちにみられる

戦後の高度成長期まで重要な輸送路として活用され、最盛期には1日に250隻が往来したとのこと。しかし、昭和40年代に入ると自動車による陸送が主流となり、特に2008年のリーマンショックで製造業が大打撃を受けると輸送量が激減。今では1日1~2隻が通るだけになってしまったそうです。

  • クルーズ船上からでしか望めない中川運河から見た名古屋の街
  • クルーズ名古屋ではガイドさんが運河の成り立ちなどを解説してくれる

倉庫群や自然の樹木が岸辺に連なり、水鳥が優雅に泳ぎ飛び交い、競技用のレガッタが水面をスイスィーッと滑っていく。水上からでしか望めないのどかな景観は、名古屋市内であることを忘れさせてくれます。往時の活気にも思いをはせると、その景色がいっそう貴重なものに思えてきます。

  • 国道1号線以南はレガッタの練習場。手をふると笑顔で手をふりかえしてくれる
観音開きでゴゴゴッと開く通船門
  • 徐々に水面が上昇しているのが水位計で確認できる

クルーズのハイライトは通船門。運河の水位を調整するために設けられた水門です。潮の干満の影響を受けずに運河の水位を一定に保つため、2つの扉の開け閉めで水位を調整するのです。前後の扉の間は長さ100m・幅11mのプールのようになっていて、クルーズ船がここでいったん留まっているおよそ5分のうちに、水面がどんどん上がっていくのが水位計で確認できます。十分に水位が上がったところで前方の扉が開くと、そこは名古屋港。視界が開け、遠方にはコンビナートなどがある工業港らしい景色が広がります。

  • 通船門を通り抜けるとそこは名古屋港

白鳥貯木場

江戸のモノづくりを支えた白鳥貯木場

クルーズ船は1時間弱で名古屋港ガーデンふ頭へ到着。ここから北上して、あらためて堀川へと向かいます。白鳥の国際会議場近くで、このあたりがかつて堀川の河口付近だったそうです。

「川岸をよく見ながら歩くと、名古屋のモノづくりに重要な役割を果たしたものの痕跡が見られるんです」と木村さん。注意深く目を凝らすと、小さな橋の下に石垣が見えます。
「これは名古屋城築城とほぼ同時に作られ、平成8年前まで使われていた水門の跡。堀川とその西側にあった白鳥貯木場をつないでいたんです」

  • 堀川と白鳥貯木場をつないでいた水門跡
  • 白鳥公園の中には貯木場だった池の一部が残されている

白鳥貯木場は江戸時代末期の最盛期にはナゴヤドーム3.3個分もの広さがあったそう。現在は公園として整備されていて、国際会議場のある場所もかつては貯木場だったそうです。

「私の子どもの頃は、堀川といえば大きな材木が浮かんでいるところ、というイメージでした。かつては太夫堀(だゆうぼり)とも呼ばれていて、太夫とは堀川を開削した福島左衛門太夫正則のこと。木曽の山が尾張藩の持ち物になって、ヒノキなどいい木材が名古屋に運ばれるようになり、資材置き場、船置き場となる大池を掘ったのが始まりです。ここから堀川を通って上流の製材所などへ運んだわけです」

  • 公園内には往時を伝える写真入りの案内板が設置されている

白鳥貯木場は日本の木材取引発祥の地で、ここに集まる良質の木材が名古屋のモノづくりを発展させることになります。

「建材用の木材加工に始まり、仏壇作りやからくり山車作りなども伝統的に行われてきました。さらに明治になると繊維業の自動織機、鉄道開通にともなう車両製造も始まります。自動織機を開発したのはトヨタグループの創始者・豊田佐吉。現在、この地域のモノづくりの中心的役割を担う自動車産業も、元をたどれば家康が名古屋に良質の木材を集め、それが堀川を利用して運ばれたことに始まるんです」

「材木をいったん水につけておくのは弥生時代からの日本独自の知恵。樹液が抜けて乾燥しやすくなり、ひずみのない木材ができるんです」
「堀川沿いから東側へ向かってなだらかな登り坂になっていて、白鳥古墳や断夫山古墳へと続いています。“台地のヘリ”好きにはこちらもたまりません」

堀川沿いのおしゃれなガレット専門店でランチ

お昼は堀川沿いで見つけた「Kitica」でランチ。アンティークな構えの店舗は周りの風景に溶け込み、看板も小さくて目立たないお店ですが、隠れ家的な一軒として人気。ここではそば粉のクレープ、ガレットを味わえます。そば粉100%で香りがよく、具もお好みでチョイスできる本格派。おなかもほどよく膨れて、街歩きの途中で立ち寄るにもうってつけです。

  • ランチのガレットは自家製ハム・卵・チーズをはじめ、スモークサーモンとチーズクリーム、アンチョビ・トマト・カッテージチーズなどから具を選べる

松重閘門

水運の輸送力を大きくアップさせた松重閘門

近世に作られた堀川、そして近代に作られた中川運河。名古屋の水運を支えた二本の川を結ぶ場所として、木村さんと次に訪れたのが松重閘門(まつしげこうもん)です。

塔の中には重りがあり、これを上げ下げすることで鉄製の門を上下に開閉する仕組み。日本の閘門は観音開きの開閉式がほとんどで塔を利用したものはきわめて珍しい。松重閘門は昭和7年から昭和51年まで約45年間稼働した

「閘門とは、河川や運河の間の水位を調節して船を通すための装置です。ここは昭和5年に作られ、高さ約20mの塔が2対、合わせて4塔建っています。太平洋とカリブ海を結ぶパナマ運河をモデルにしたといわれます。タワー式でこれだけの規模のものは国内でも他にあまり例がなく、非常に珍しいですね」

従来の輸送路である堀川と新たに生まれた中川運河が松重閘門で結ばれ、名古屋の水運の運輸能力は大きくアップしました。それほどまでにこの時代、名古屋の水上で盛んに運ばれていたのは何だったのか? その謎は続くブラナゴヤ第4弾で解明していきます―!

PROFILE

案内人Yusaku Kimura

名古屋市教育委員会文化財保護室学芸員。同志社大学大学院文学研究科修了。見晴台考古資料館、名古屋市博物館、名古屋城などに学芸員として勤務。お薦めのスポットは尾張の城。「名古屋城の天守閣は今のうちに登っておくべき。他にも末盛城、大高城など堀などの残りのいいお城が市内にあります。小牧、犬山、岐阜城と合わせると充実したお城巡りになりますよ」

ライターToshiyuki Otake

名古屋在住のフリーライター。雑誌、新聞、Webなどに名古屋情報を発信する。著書に『なごやじまん』(ぴあ)、『名古屋の商店街』(PHP研究所)、『名古屋めし』(リベラル社)などがある。コンクリート造形師、故・浅野祥雲の研究をライフワークとし、その第一人者として『タモリ倶楽部』にも出演経験がある。

カメラマンTomoya Miura

1982生まれ。現在名古屋を中心にウロウロしながら撮影中。 その他、雑誌広告も。
栄の観覧車に一度は乗ってみようと思ってます。