2019.3.22
絞り問屋・竹田家の長女・中村俶子さんと歩く400年の伝統が息づく絞りの産地・有松~その1
TEXT : AYUKO TANI / PHOTO : TOMOYA MIURA
名古屋駅から電車に揺られ、およそ20分。旧東海道の面影を色濃く残す、緑区有松。卯建(うだつ)のある瓦屋根、塗籠造り(ぬりごめづくり)の壁など、歴史と伝統を感じさせる旧家が並ぶ町並みは、2016年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。また、有松と言えば伝統工芸「有松・鳴海絞り」の産地としても知られています。
今回の案内人は、有松・鳴海絞りの開祖、竹田庄九郎一族の流れを汲み、400年にわたって絞り問屋を営む、七代目竹田嘉兵衛の長女であり、現在はNPO法人コンソーシアム有松の理事長として活躍する中村俶子さん。有松の町の魅力、そこに息づく染色文化を守り、広く世界に発信するため、日々、新しい取り組みに挑戦する町のみなさんをご紹介いただきながらの早春の有松散歩。どうぞおつきあいください。
竹田嘉兵衛商店
感謝の気持ちで守り続ける大切な家
400年の歴史を誇る有松・鳴海絞りは、その開祖と言われる竹田庄九郎により、この地で始まりました。中村さんの生家でもある竹田嘉兵衛商店は、竹田家の分家として江戸時代の末期に建てられ、以降、明治から大正にかけて増改築を重ねながら往時の面影を今に伝えています。建築学的にも貴重な建物として、平成7年に名古屋市の有形文化財に指定されました。
「主に広間と茶室の部分は表千家の方による設計だと聞いています。その時代には、お茶の世界の方が家をデザインするということが多かったみたいですね。明治の頃からずっとメンテナンスしながら維持してきたのですが、当時は大工さんや左官さんが住み込んで、一年中あちこち手入れをしていたそうです」。
日本家屋をながく守り続けるには、こまめで丁寧な手入れが欠かせません。しかし、ふすま一枚、壁一面とっても、既存の規格サイズのものを使うことはできず、すべて一から誂えなければならないのだとか。
「古くなるほどに直したいところは次々出てきますけれど、かかる費用が桁違いで。毎年少しずつしかできませんね。負担やプレッシャーも感じますが、この家があるおかげで今でもいろいろな方が訪れてくださるし、商売も続けてこられました。八代目の兄ともども、感謝の気持ちで守っているんですよ」。
愛おしむような眼差しで語る、生まれ育った家への想い。中村さんのお話の中で特に印象深かったのは、「家は生きている」という言葉。そして「建物は手をかけ愛情を注ぐほどに輝くもの」とも。代々続く家を守り続ける誇りと使命感が伝わるようです。
この道40余年の伝統工芸士 松岡清子さん
この日、竹田邸の広間では、伝統工芸士・松岡清子さんの絞りの実演も見せていただくことができました。絞りの世界は一家で一つの技を受け継いでいくしきたりがあるそうです。松岡さんは代々「竜巻絞り」という技法を続ける絞り職人の松岡家に嫁いで40年余り。しかし、はじめから手取り足取り技を教えてもらうことはなかったといいます。結婚するまではまったく経験のなかった絞りの技を見様見真似で身につけ、ひたすらに磨いてきたのだそう。長年の間に擦れて指紋も消えてしまったという指先。そこから繰り出される見事なくくりの技には、ただただ感嘆するばかり。
「松岡さんたちのような腕の良い職人さんたちがお元気なうちに、きちんとした伝統を後継に伝承したい。NPOでは、そのための新たな取り組みとして、若手クリエーターのみなさんを対象にした『絞り塾』を始めたいと思っているんですよ」と中村さん。この道一筋数十年という職人さんが年々減っていく中、伝統技術へのリスペクトを込めて、絞り文化のこれからへ夢を描きます。
久野染工所
世界のファッション業界も注目!
絞りの魅力と無限の可能性
有松・鳴海絞りが出来上がるまでの工程は完全な分業制。まず柄を決め、「型彫り」や「絵刷り」と呼ばれる作業によって絞る場所に目印を記していきます。そして絞り職人さんによる「くくり」が施され、最後にいよいよ「染色」。大正元年に創業した「久野染工所」は、この染色を四代にわたって一筋に行ってきた、有松を代表する染工所。たくさんの機械が所狭しと並ぶ広い作業場の中を、社長の久野剛資さんが案内してくださいました。
「創業時は有松駅前に工房がありましたが、その後いまの場所へ移りました。この染め場はもともと豆腐屋さんだったところ。染色には水をたくさん使うので、ちょうど良い環境だったんです。かつて絞りといえば和服のための反物が主でしたが、最近では製品の幅も非常に多彩になったので、それに伴い、染めのための機械の種類も次々に増えていきました」。
久野さんは伝統的な絞り染めの技術を続けるかたわら、近年は形状記憶を応用した新しい絞りの開発にも力を注ぎ、その魅力を世界に、また次世代に繋げる努力をしています。「絞りというのは、染色をして完成する模様のこと。うちではさらに、絞った時にできる形状にも価値を見出して、新しい製品づくりをしています」。
そもそも、絞りというのは「防染」の技術。そのために模様の部分を硬く糸でくくり、染色後に糸を抜けば、そこに「しぼ」と呼ばれる形が残ります。「その“しぼ”を湯気で伸ばして浴衣が出来上がるのですが、“しぼ”は洗う度によみがえるという特性があります。それで夏は生地に空間ができて涼しいんです。今から25、6年前、世界的にも知られるファッションデザイナーが、そういう絞りならではの特性や素材感に目をつけてくださり、デザインに生かして、毎年、世界中のコレクションで作品として発表してくれるようになったんです」。
絞りの産地、有松にとって画期的な転機となったのは1992年に開催された「第一回国際絞り会議」。そこで生まれたデザイナーとの出会いが、伝統的な有松絞りの技術を世界に向けて飛躍的に発展させる大きな契機になったと、久野さんと中村さんはともに当時の様子を振り返ります。「伝統技術の素晴らしさを広くアピールしたことで、クリエーターたちの目に触れることになりました。本来の着物としてはもちろん、いまでは素材も表現の幅もどんどん広がって、ウールやレザーなどにも応用しています。アパレル業界やファッションデザイナーのみならず、インテリア、舞台美術、衣装など、幅広い分野からも需要が生まれています」。いまも日々、発見の連続。絞りには無限の可能性があると力強く語る久野さん。その挑戦はまだまだ続きます。
山上商店
“手仕事を遊ぶ”をテーマに生まれた「cucuri」
「ここのお洋服、すごくかっこいいの。ぜひ若いみなさんにも身につけて欲しい!」
続いて、中村さんがおすすめするお店「絞りのやまがみ」へ。ぱっと見ただけではすぐに絞りとはわからないようなヴィヴィッドな 色合い。エッジの効いた個性的なデザインのアイテムたちに一瞬で目を奪われます。
代表の山上正晃さんは「山上商店」の三代目。「産地メーカーとして昭和9年に創業。もうすぐ100年になります。絞りができるまでにはさまざまな工程がありますが、うちはそれらを取りまとめて販売を行っています。創業当時、それ以降もずっと浴衣を専門に扱ってきましたが、徐々に和物や現代的な洋服などにも取り入れるようになりました」。
さらに、4年ほど前には、オリジナルブランド「cucuri」をスタート。これまでにない斬新なデザインが評判となり、東京や大阪などでも人気急上昇中。
「有松に生まれ育ち、自然に家業を継ぎ、長く続いたこれまでの仕事をこなしていく中で、有松にはデザイナーという立場の人が非常に少ないということをずっと感じていました」。そんな時に出会ったのが、後に「cucuri」のデザインを手掛けることになるデザイナーの今井歩さんでした。「新しいものに敏感な若い世代の人たちでも、人の手で丁寧にしっかりつくられている日本のいいものを持っていたい、長く身につけたいと思っている方は多いと思うんです。次々に生まれては消えていくデザインの消費にも疑問を感じて。しかしその一方で、優れた技術である有松絞りは、外のデザインの力を取り入れなければ時代の変化に対応できなくなるとも思っていました。いろいろな人に自分の想いを伝える中で偶然、今井さんに出会い、彼女もまた私と同じような想いを持っていることがわかり意気投合。オリジナルブランドを一緒に始めることになりました」。
デザインを入り口にして、これまでとは違ったターゲットにも絞りの良さを伝えたい。そんな新しいコンセプトで生まれた「cucuri」。アクセサリーやジーンズ、蝶ネクタイなど、従来の「和風」とはひと味違ったファッショングッズの数々は、どんな素材にも違和感なく溶け込むデザイン。幅広いファンの心をつかんでいます。
スズサン
文化の壁を越えて
世界に広がる絞りの輝き
決して広くはない有松のまち。しかしそこには、地元で生まれた絞りの文化と伝統に誇りを持ち、未来への展望を胸に、日夜努める人々の熱意が溢れています。絞りの未来のために挑戦を続ける人たちの情熱に触れるたび、新鮮な驚きと感動を覚えます。次に中村さんが紹介してくださった「株式会社スズサン」の村瀬裕さんもまた、有松・鳴海絞りを国際的なブランドにまで育て上げた立役者のひとり。
「息子と連携するかたちで日本を代表する伝統工芸、有松・鳴海絞りの製品を世界各国、主にヨーロッパに向けて発信しています。きっかけは2008年に息子がドイツのデュッセルドルフに会社を立ち上げたこと。最大の目的は、ドイツで“スズサン”ブランドを構築し、その名前を世界に知らしめることでした」。ドイツの会社を拠点に現地で主にデザインを担当する息子の弘行さんと、有松に残り、職人として息子さんのデザインを形にする父の裕さん。離れていても、二人は常に綿密なコミュニケーションを図りながら、世界に受け入れられる製品の開発とアピールに力を注いできました。
「展示会を中心に世界中のファッション、インテリア業界に向けて出展するところから父子二人三脚でやってきました。アイテムとしては、最初ランプシェードとスカーフからスタート。特にスカーフはヨーロッパのみなさんにインパクトを与えたようです。それがファッション業界に広く展開する大きなきっかけになりました」。親子で力を合わせ、手探りで海外でのニーズをリサーチ。いまでは世界30カ国ほどの国々でショップ展開。名立たるラグジュアリーブランドとの連携も数多く実現しています。
製品開発の途上は試行錯誤の連続だったそうですが、同時に学ぶことも多かったと、これまでの10年を振り返る村瀬さん。「しかし、それも苦労ではなかったですね。目標に向かう過程では重要な作業ですから。可能性を信じていましたし、その先にある未来を見据えての努力はむしろ楽しかったです。ワクワクする期待感を息子と味わえるのは幸せなことですよ」。今後は、歴史ある絞りの文化や技術を次世代に繋げていくのが使命、とも。「そのためには、絞りだけに留まらず、他にも数ある優れた伝統技術、工芸とも交流をしていくことが大事だと思います」とますます意欲的。将来への夢はさらに広がります。
PROFILE
1943年 名古屋市緑区有松町 絞商7代目竹田嘉兵衛長女として生まれる。
幼少時は東京で過ごし8歳で有松へ戻る。愛知学芸大学附属名古屋中学校、県立旭丘高校、成城大学文芸学部英文学コース卒業。1967年に結婚し2男Ⅰ女の母親に。その後、南山大学法学部入学、卒業。同学部卒業後司法試験を目指し名古屋大学法学部へ社会人入学、卒業を経て1987年、義父の看病の傍ら次世代への教育を考え友人と私塾を作る準備に携わり、1989年 フィニッシングスクール フェリシアカレッジ開校 学院長に就任。
1995年 夫の死去により家業を継ぐ。
1998年 実家の竹田嘉兵衛商店に戻り、営業企画や催事企画などを担当。
2015年4月、弟である故竹田耕三の蒐集した絞りの資料館設立のため「特定非営利活動法人コンソーシアム有松鳴海絞」を設立。
2017年 2月有松にライブラリーカフェ「庄九郎」をオープン。2017年9月、特定非営利活動法人コンソーシアム有松 理事長に就任。
放送作家として20年にわたりテレビ番組制作に携わる。現在はフリーペーパー、新聞、書籍、WEBなどを中心に、地元・名古屋を拠点にライターとして活動中。 何かの奥に隠れているものを覗くのが好き。蓋のある箱の中身や閉ざされた扉の奥にある空間、カーテンの向こう側の景色、そんなものたちが気になります。人の心の奥にある思いや言葉を引き出す取材、インタビューが好きなのもそれと同じなのかもしれません。
1982生まれ。現在名古屋を中心にウロウロしながら撮影中。 その他、雑誌広告も。
栄の観覧車に一度は乗ってみようと思ってます。