2017.3.30
「自分の街を愛することが、
国を愛することにも
つながるし、
世界を愛することにも
つながると思うんだわ」
浅井健一さん
INTERVIEW,TEXT:SHINICHIRO ABE / LISTENER:NAMI AOKI / PHOTO:AKITSUGU KOJIMA
浅井健一。BLANKEY JET CITYとしてデビューし、その後もソロ名義やさまざまなバンドで活動を続ける、日本を代表するロックミュージシャンのひとりだ。キャリアはまもなく30年を超えるが、いまだ第一線で存在感を発揮し続けている。
そんな浅井は、名古屋出身のアーティストとしてもファンによく知られている。上京したのは25年以上前のことだが、インタビューやステージ上で聞かせる名古屋弁や、数年前には名古屋でカウントダウンイベントを開催するなど、地元への愛着をうかがわせるエピソードも多い。
当然ながら、普段は楽曲世界についてのインタビューが多い彼に、今回は地元である名古屋をテーマに話を聞いた。ライブツアーではもちろん、折を見て実家のある名古屋へ帰ることも多いという彼に、今の名古屋はどう写っているのか。そして、この街で生まれた人間としてどんなことを望むのか。浅井にとっても初めての経験だったという、名古屋についてのインタビューでじっくりと語ってもらった。
楽しい人たちが作った街は楽しいだろうし、
おちゃめな人が作った街はおちゃめだよね
――「SNUG CITY NAGOYA」は「名古屋」の新しい魅力・いつもの魅力を発信していくことがテーマのサイトです。きっかけになったのは、あるアンケート調査で名古屋が魅力のない街ナンバー1になってしまったことなんです。
「そうなんだ。自分が生まれた街だから好きだし、思い出もあるから、人気がないというのは残念だよね。この取材の話を聞いてから、俺が何を話せるかなと思っていろいろ考えてたんだけど、名古屋って少しさっぱりしすぎてると思うんだわ。あんまりゴチャゴチャしてる感じがないよね。東京とかって、渋谷とか歌舞伎町とか、ゴチャゴチャしたところがあるんだよね。博多とかもそうで、そういうところって人気あるじゃん。密集してる。名古屋だとそういうところは栄になるのかな。でも、わざわざゴチャっとさせようというのは、なかなか難しいよね(笑)」
――浅井さん自身は、名古屋の街にはどんな記憶がありますか?
「結局自分だと、10代の終わりか二十歳ぐらいの頃。ウィークデイはみんな仕事しているわけだけど、そこから遊びに行くような場所が俺たちの頃はちょこちょこあったんだわ。男女の出会いがある場所って大事じゃん。そういう場所はちょっと危なかったりもするんだけどね。そういう場所が好きじゃない人は、どういうところ行くんだろう?」
――デパートとか、ショッピングでしょうか。
「でも、デパートとかで出会いはないじゃん?(笑)若者が社交できる場所。俺らの頃はディスコだったけど、今はクラブとかになるのかな」
――あとは今だと音楽フェスでしょうか。
「でもフェスってせいぜい一年に一回か二回でしょ。普段、日常的に行ける場所だよね」
――浅井さん自身もけっこう足を運んでいたんですか?
「めちゃめちゃ行っとったよ。それとバンドぐらいしか楽しみがなかったし。当時はパンクとかニューウェーブとかが流行っとって、『OZ』っていうお店とか、そこがなくなってからは『SCHOOL』とか。そんなに危険という感じでもなかったし、いろんな人がいて面白かったよね。そういう文化がなくなりつつある気はする。どうやったら、そういう場所を増やせるのかっていうのは、なかなか難しいところだけど……なんか話が行き詰まってきたね(笑)。どうしようね、名古屋」
――そうですね(笑)。ちなみにその後、浅井さんは東京に出ていくわけですけど、当時、違いみたいなものは感じました?
「バンドの話にはなるけど、俺もバンドをやっとってなかなか有名になれなくて、あるきっかけで東京へ行ったんだわ。東京にはホントにいろんなバンドがいるじゃん。けっこういろんなバンドを見たりしたんだけど、東京の方がレベルが高いとか、かなわないとか、そういうのは思わなかったね」
――自分自身の音楽に自負もあったわけですよね?
「そういうのは心の中で思っとっても、あんまり出しちゃいかんもんじゃん(笑)。いや、それは自分の心のなかでは思っとったよ。自分の音楽が一番最高だって。ただ有名になるにはやっぱり東京に出ないと、というのはあったよね」
――今の話は、東京が、名古屋がというよりは、自分がどんな音楽をするかが大事ということでもありますよね。どこでいるかよりも、やっている音楽、もっと言えばやっている人が大事という。
「うん……ずっと考えてたんだけど、街で考えたら、そこに生きている人たちの知性、感覚の良さ、センスみたいなもの。それが大事だと思うんだわ。住んでる人たちの感覚が良ければ、街は楽しくなるし、よくなると思うんだわ。住んでいる人が愚かだと、楽しくなくなるし、つまらなくなるし、賄賂や悪いことがはびこって街も衰退する。一人ひとりの知性を高めること。そのためには、例えば素晴らしい映画を見る、素晴らしい本を読む、カッコいい音楽を聴く。それこそ昔の映画、親たちでも知らないような素晴らしい映画もたくさんあって、そこから始める。教育ってすごく大事。たくさん感動したりとか、これは嫌だなとか、体感するしかないからね。映画ってそれを体感させてくれるものだと思うよ。実は今日、おすすめの映画をピックアップして書いてきたんだわ。音楽も芸術も映画も腐るほど存在するけど、本物ってそのなかで一割にも満たないらしい。本物をたくさん体感して自分を高めていくしかないと思う。そうやって、おちゃめな人が街に増えたら嬉しいよね(笑)」
――街の魅力を作ろうと考えると、どうしても観光地や名所づくりみたいなことばかり考えてしまいますが、今のお話はそれ以前のことですよね。まずは人、という。
「結局、人が作ってるからね。楽しい人たちが作った街は楽しいだろうし、おちゃめな人が作った街はおちゃめだよね」
地元の言葉で喋るのは当たり前のことだしね
――ちなみに浅井さん自身は、住んでいる時は名古屋にどんなイメージを持っていましたか?
「住んでる時は名古屋は大都会だと思っとったよ。名古屋弁は標準語だと思っとったし(笑)。名古屋で満足しとったよね」
――さきほど魅力ない街ナンバーワンに選ばれてしまったと言いましたが、実は名古屋は住んでいる人の満足度は高い街なんです。実家をあまり紹介したくないみたいな感覚かもしれないですね。もともと人を迎えるために作っていないから、落ち着くんだけど照れくさいというか、ボロボロなところがちょっとあるだけでもすごく気になるというか(笑)。
「実家がボロボロだと、それは見せたくないよね(笑)。でも名古屋って、どっちかというとピカピカだよね。さっきも言ったけど整然としてるというか」
――名古屋の良いところって、浅井さんはどんなところだと思いますか?
「駐車場もいっぱいあるし、車が停めやすいよね(笑)。故郷だから大好きだし、東京みたいに人だらけじゃないから自分にとってはのんびりできていいな。昔、青少年公園(現愛・地球博記念公園)の方に大学があって、そこからさらに奥の方に進んだところにすっごい広い草原というか、畑があったんだわ。そこにはよく行っとったよ。それこそ車で行ってのんびり寝たりして」
――短い時間でそういう場所に行けるのは、名古屋という都市の規模の特徴かもしれないですね。ちなみに今、ご実家に帰ってこられた時に、よく行く場所とかはありますか?
「実家が名東区なんだけど、『コメダ珈琲』とかよく行っとるね(笑)。うちの父親が毎朝行くんだよね。コーヒーが好きなんだわ。そこで新聞を読んで。俺はそれに付いて子どもと一緒に行くんだわ。この間はお店が一杯だったから『支留比亜』という喫茶店だったけど(笑)。駐車場があるのがいいよね。アメ車乗りには名古屋はいいと思う(笑)」
――喫茶店文化は名古屋感ありますね。
「あとは……食べ物かな。名古屋、食べ物で行くか!名古屋の食べ物は世界で一番うまいよ。日本で一番うまい。よくツアーで日本中を回るんだけど、10人ぐらいで回ってどこか一番好きって聞くと名古屋っていう人は多いよ。打ち上げでも人気あるね。博多か名古屋か。味仙、手羽先、味噌煮込み、あとはスガキヤ(笑)。全部好きだね。手羽先ってそれこそ俺が名古屋に住んでるときに『(世界の)山ちゃん』とかが出てきたんだけど、今は東京にも店あるからね。コメダもあるね。それと赤だしはうまいよね。俺は赤だしばっかりでいいけど、家はなんでかミックスなんだけど(笑)」
――確かになごやめしは、ここ10年で全国的に注目されるようになりましたね。
「あとは名古屋って…どういうものがあるんだろ?」
――最近だと、LEGOLANDができたりとか、ベーシックな名古屋感だと名古屋城、しゃちほこでしょうか(笑)。
「それはそれで大事だけど、やりすぎかもね(笑)。食べ物とか、LEGOLANDみたいなものは大事だと思うし、いいと思うよ。でもさっきも話したけど、それ以前に住んでる人たちの心が大事なんだよね。センス、感覚がいいのか悪いのかが、いろいろなことを決めていると思うよ。まずは住んでいる人たちの心」
――人、というところでは、名古屋弁は特徴ありますよね。浅井さんはずっと名古屋弁ですよね(笑)。
「もう東京に来て27年だけど、なくならんよね(笑)。鮎川誠さんっているじゃん。19ぐらいの時にライブを見て、その影響は意外とあるかも。鮎川さんって見た目は外国人みたいだけど、喋ると博多弁ですごい自然な感じで。無理に盛り上げるような感じもなかったし。言っている内容はすごくかっこいいし、素の感じがすごくよかったんだわ。地元の言葉で喋るのは当たり前のことだしね」
――それは浅井さんのステージングへの影響も大きいですね。
「ずっとステージでの喋りが苦手だったんだけど、最近、喋るようになってきたんだわ。特に今回のツアーから。やっぱり来てくれた人に笑顔で、帰ってほしいからね。喋るとみんな喜んでくれる。最近、面白い話を発明して(笑)。今年の1月。前回の名古屋ではまだ発明されてなかったから、名古屋ではまだ話しとらんのだけどね」
――そろそろインタビュー時間も終わりに近づいてきましたが、浅井さんから名古屋への提案などあれば聞かせてください。
「やっぱり男女の出会いがある場所が大事だと思うんだけど、フォークダンスができる場所ってないのかな(笑)。フォークダンス、面白いんだわ。『New Acoustic Camp』っていう音楽フェスが群馬県でやってるんだけど、夜になるとフォークダンスタイムがあって、すごい人が集まるんだわ。人が多すぎて、収拾つかなくなって大変そうだけど(笑)。フォークダンス、絶対にいいよ。仕切り次第ですな。なにかのイベントに合わせてやったら、絶対に盛り上がるよ」
――あんまり考えたことがなかったですね。フォークダンスって大人になってからやる機会ないですよね。
「簡単だから良いんだよね。しかもひとりで踊るわけじゃないし。絶対にいいよ、フォークダンス(笑)」
――少し硬い質問かもしれませんが、最後にサイトのテーマにあたる質問をいくつかさせてください。まずは「名古屋のどんなところに誇りと愛着を感じますか?」です。
「愛着は……やっぱり生まれた時、初めて目にした光景が名古屋だったしさ。自分のルーツだから。そういうことが一番でかいかな。誇りは……誇りかぁ。難しいね(笑)」
――次は「浅井さんのようなロックスターが、普通の名古屋人に戻れる場所」です。
「いつも普通の名古屋人だと思っとるよ。東京におっても」
――では最後に「名古屋の街が大切にしてほしいこと」について。
「自分たちの故郷、国を愛する気持ちを大事にしてほしいよね。今の人にも、子どもにも。名古屋って、それこそ戦国時代とか見ても昔から活発な地域だし、そういう歴史、DNAが脈々と受け継がれてきてる。今の日本って平和じゃん。いろいろ大変なことを乗り越えてようやく掴んだ平和を維持するために、自分のことや国、街を大事にする気持ちを大切にしてほしいかな。愛国心だよね。愛国心を大事にしてほしい。愛街心でもいいけど(笑)。自分の街を愛することが、国を愛することにもつながるし、世界を愛することにもつながると思うんだわ。一概には言えないけど、街を愛せない人は世界も愛せないと思うよ」
PROFILE
1964年名古屋市名東区生まれ。
1990年より2000年までの10年間、孤高のバンド「BLANKEY JET CITY」として活動。
2000年7月9日横浜アリーナにて解散。その後、以前ソロワークで結成していた「SHERBETS」として活動を始め、同時期に独自のレーベル“SEXY STONES RECORDS”を設立。活動の拠点としつつ、よりアーティスティックに世界を広げる。2001年SHERBETS活動中にUAとバンド「AJICO」を結成し、短期間ではあるがまた違った壮大な世界観で魅せた。
そして2002年2月、新バンド「JUDE(ユダ)」を結成する。2枚同時アルバムリリースなどより勢力的に、
アグレッシブにライヴを中心に活動。2006年7月からは、浅井健一ソロ名義での活動をスタートさせ、1st ALBUM
『Johnny Hell』を発表。2007年6月にはアルバムを同時に2枚リリースし全国26本のツアーを行う。
また、自身で手がけるアートワークにも定評があり、【浅井健一作品集/「SHERBET Street」(画集、小説、BOOK MUSIC)】 (完売)や、絵本「TED TEX」など、単体としても素晴らしい作品として高く評価されている。2007年3月にはART WORKの集大成の画集「Jet Milk Hill」を発表し、初の個展も開催した。その他、詩集も3冊発表している。
キャリアを通じて、地元名古屋への愛着をインタビューでもたびたび語っており、2008年の年末には、名古屋でカウントダウンライブも開催した。